錆語・第零話

「薄刀『針』――蒐集完了」
 一太刀のもとに斬り捨てられた男に一瞥も呉れることなく、若い風貌の男は事もなげに呟いた。
 日本最強と謳われる剣士、錆白兵である。
 錆白兵の足元に横たわり、既に物言わぬ死体へと堕ちているのは、薄刀『針』と呼ばれた刀の元所有者、傷木浅慮(きずき せんりょ)。
「おい、錆よ」
 一戦を終えた後とは思えないほどに涼しい表情を保つ日本最強を、少し離れた位置から呼び付ける女がいた。
 尾張幕府家鳴将軍家直轄預奉所軍所総監督、奇策士とがめである。
「なんだ、奇策士どのよ」
 感情を湛えぬ瞳でふっと振り向く錆。
 両手に刀を提げている。
 富岳三十六刀工が一人、痣畝焔等(あざうね ほむら)が鍛えし一本を右手に、そしてたった今蒐集し終えたばかりの薄刀『針』を左手に。
「まずは、ご苦労であったと言わせてもらおうか。よくやった」
「拙者に――
 随分と上から目線で掛けられた労いに答えるでもなく、錆は言った。
「拙者にときめいたでござるか?」
……いや、別にときめいてはおらぬが」
「そうか……
 素っ気なく返された言葉に、ほんの少しばかりその表情が落胆の色を帯びた。
 そんな変化に気付いてか気付かずか、とがめは続ける。
「これで先の失点も幾分かは取り返せようというものだ。重ねて礼を言うぞ」
「拙者は命じられるがままに刀を振るっただけだ。礼には及ばないでござる」
「刀は持ち主を選べど、斬る相手を選ばぬ――か」
「そうだ」
 錆は頷く。
「自身が刀でこそないものの、拙者は奇策士どのを己が主と選んだ。なれば必然、拙者の刀はおぬしのもの。刃を向ける相手は御意にのみ」
「見上げた忠誠心だな。そなたほどの腕があれば、他の者に追従などする必要はあるまいに。まあ、その忠誠心に助けられた私がとやかく言うことではないがな」
 そこで一旦、言葉を切る奇策士とがめ。
 そこに言葉を挟むでもなく、待つ錆白兵。
 なるほど、見上げた忠誠心――である。
「そなたに問いたいことがある。正直に答えよ」
「なんなりと」
「そなたは今、なにを考えておる?」
 それは、聞きようによっては話をはぐらかしているとすら言われかねない、漠然とした問い。
 いや、こんな問いをそもそも問いとは呼べないかもしれないが。
 その問いに、本心はどうあれ、真意を図りかねるといった風に錆は首を傾げた。
「なにを、とは?」
「この場合、この問いの意味するところは決まっておろう」
 とんとん進むべき問い掛けが思うようにいかないせいか、憤懣やる方なしという様子でとがめは語気を荒らげつつ、改めて問うた。
「だから、その刀を己が手に提げた今、そなたはなにを考えておるのかと――そう訊いておるのだ」
 その刀を。
 薄刀『針』を。
 戦国時代を支配したと謂われる伝説の刀鍛冶、四季崎記紀が鍛えし変態刀千本がうち、最も完成度の高いと称される完成形十二本が一本――薄刀『針』を!
 手にした今、なにを考えているのかと。
 それは、この仕事を依頼した奇策士とがめでなくとも、気になって宜なるかなという問いだった。
「拙者は――
 しかし。
 口を開き掛けた錆白兵がなにか言うより先に、とがめは更に言葉を紡いだ。
「そなた、私を裏切ろうと思っておるのではあるまいな?」
 それは。
「そなたも、彼の忍者と同じように――その刀を携えて行方を眩ますつもりでは、あるまいな……?」
 それは。
 この仕事を請け負った前任に、いともあっさりと裏切られたとがめが、どうしても確認せざるを得ないことだった。
 感情を表に出さず、想いを口に出さない彼女であっても、それだけは抑えられなかった。
 そんなとがめの心中を知ってか知らずか、錆白兵はじっとその目を見やる。
「おぬしに」
 ほんの数瞬きりの沈黙を経て、
「おぬしにそう問われるまでは、拙者はそのつもりだったでござる」
 錆白兵は言った。
――――っ!」
「その薄さに、その脆さに、その弱さに主眼を置いて鍛えられたこの刀」
 ゆっくりと紡がれる言葉。
「正直、初めてこの刀の話を聞いたときからずっと、傷木浅慮と相対しているときでさえ、拙者にはこの刀の魅力が分からなかったでござる」
 その言葉を遮る言葉を、しかし、とがめは持たない。
「だが」
 すっ、と。
 己に刃を向ける敵と向かい合っている最中でさえ、ろくに構えというものを見せなかった彼は、初めて刀を構えた。
 ただし、あまり常識的な構え方ではなかったが。
 右手に提げた刀を――
 富岳三十六刀工が一人、痣畝焔等の鍛えし名刀を――
 自身の胸を守るように横たえて――
 左手に提げた刀を――
 伝説の刀鍛冶、四季崎記紀の鍛えし名刀、薄刀『針』を――
 太陽を貫かんばかりに真っ直ぐと掲げて――
……? そなた、なにをしておる……?」
 武芸の心得を一切持たぬ奇策士とがめには、事ここに至ってもなお、錆白兵の意図を掴めない。
 感情を湛えぬ瞳で、横たえた刀を無機質に見詰めるその男の真意を。
 小さく唇が動くその瞬間まで、ついぞ掴むことはできなかった。
 ――ハク、トウ、カイ、ガン。
……っ! そなた、なにをするつもりだ!」
 音もなく発せられたその言葉に言い得ぬ恐怖を覚えるが、既に手後れだった。
 薄刀『針』でそんなことをすれば――
 この世で最も薄く、脆く、弱いその刀は音もなく振り下ろされ――
 痣畝焔等の鍛えし名刀をあっさりと叩き割った。
……え?」
 分厚く、硬く、強い刀を。
 ぴんと張られた一糸を断つかのごとき易しさで。
 あっさりと、叩き割ったのだった。
「奇策士どのよ」
「な、なんだ。錆よ」
 きらきらと破片が舞う中でその男は振り向いた。
「この刀を手にした瞬間に分かった」
 なにを、とは訊かない。
「この刀こそ拙者に相応しく、拙者こそこの刀に相応しい」
 剣筋を誤れば、それだけでいとも容易く砕け散るほどに儚い刀。
 ある意味で、いや、あらゆる意味で、最も扱うのが困難な刀と言えよう。
 己を弱体化するがために存在するかのようなその刀を差して、これこそがと言える剣士が。
 この男の他に――いるわけがない。
「奇策士どのよ」
……なんだ、錆よ」
「拙者にこの刀を預けるでござる」
「なに……!?
「なれば、拙者はおぬしを裏切らない」
「!」
「おぬしは拙者を携え、拙者は薄刀『針』を携える。そして集めてみせよう、残る十一本の変態刀を、ひとつ残らず」
 感情を湛えぬ瞳に、ほんの少しの揺らぎを込めて。
 錆白兵はとがめに問うた。
「拙者がおぬしのもとを去れば、今度こそ打つ手はなくなるのだろう?」
 それならば。
 頷くのが、おぬしのためではないのか、と。
「そなたに去られたら――今度こそ私に打つ手は――
 ――ある。
 本当のことを言えば、ある。
 先に頼った忍者に裏切られ、そして此度に頼った錆白兵に裏切られようとも。
 あとひとつだけ、とがめには残された奇策があるのだ。
 しかし――いかに奇策士と言えど。
 己が感情すらをも奇策の一部とする奇策士と言えど。
 それだけは――それだけは、絶対に打ちたくない奇策だった。
 ゆえに奇策士は。
……その通りだ。そなたに裏切られれば、もはや私に奇策は残らぬ」
 奇策士とがめは頷いた。
「万に一つも、そなたを失うわけにはいかぬのだ」
 頭を下げずに、奇策士とがめは願った。
「そなたの力を貸してほしい」
――御意のままに」
 そしてここに、日本最強・錆白兵と奇策士とがめの二人組が誕生した。
 それは――肌寒い、師走の夜のことだった。



(薄刀・針――蒐集完了)
(第零話――了)
(第一話に続く)